蠣崎波響の生きた江戸時代後期は、ロシアが南下を続けてクナシリやエトロフでアイヌと接触するに至ります。
百年以上も鎖国を続けていた日本の蝦夷(北海道)の松前藩では、そのロシアとの交渉に大いに悩まされます。
波響はその藩主の一族であり、しかも家老でした。
松前藩は、アイヌ反乱の対策に失敗したという理由と、さらにロシアに内通しているとの密告によって、岩代(福島県)梁川に移されます。
実収五万石に相当する藩が九千石に落とされるのです。
波響は家老として、この梁川移封と松前復帰の苦難に直面します。
幼い頃から親んだ画業を生かし、画を売り捌いて藩財政の足しにしたといいます。
波響は、当時の京都や江戸の文化人との交流で大変人気があったようです。
その交流のあった人々の漢詩や手紙や俳句などを通して、波響の生存の実像に迫るというのが、この大著の眼目なのです。
******
彼の穏雅な性格は、挫折のなかにも日常の小さな喜びを発見する才能となり、それが最も不遇だった梁川時代の「八景図」のなかでも、領民の農家の男女の生活ぶりへの暖かい目となって私たちに伝えられ、この人物はいかなる時にも、運命と和解することを知っていた、生に対して肯定的態度を維持しつづけた賢人であったと教えてくれる。
******
中村氏が「平凡な結論」と自ら呼ぶここにきて、読者の私たちも安堵の溜め息をつきます。