「金魚」は、中学の同期の者が予科練に行った当時のことを回想している作品です。


しかし、これは単に当時の世相を回想しているだけではなく、中学生である「私」もまた軍関係の学校に願書を出さなければならないと追い込まれていく、その不安と恐れが書かれているのです。


「しかし、病気の再発によって、私は志願書の提出を中止した。


自分自身に志願をとりやめねばならぬ発病という確かな理由が生じたことに、安堵を感じていた。」


このあたりに当時の中学生の誰しも抱く考え方が現れています。


それは


「戦時中、私の周囲には戦争を罪悪視していた人物はいなかった。」


という明確な表現と共に、戦後には全く伝えられていない真実の一端なのです。


文学でこそこれは言われなくてはならない、ということでしょう。


「白い壁」という作品も私は好きです。


鼓膜再建術という手術をうけて入院する話なのですが、ここには戦争の影もあるにはあるのですが、それは遠い陰影というようなものになっています。


生死には関係のなさそうな入院患者ばかりだと思っていた耳鼻咽喉科の病棟も、死の黒い手から免れ得ないということを知ります。


入院患者に愛らしい少年がいたまし。


「このような少年を孫にもつまで生きていたい」と思わせるような少年でした。


その少年が退院していいと言われて、喜んでいるのを見ていたのに、後になって、重症患者用の病棟に移されたと聞かされます。


美しくも悲しい物語です。



今回紹介するのは、「死のある風景」です。


吉村昭著。


吉村氏の著書は、いくつか感銘を受けた本がありますが、今回はこの作品を取り上げます。


この「死のある風景」に集められた短篇は、すべて私には初めてのものばかりでした。


この書のあとがきに、


「十年以上も前に書いたものから最近書いたものまで、十篇の私小説をおさめた」


とあるので、私は、吉村氏の私小説に類する作品を今まで見ていなかった、ということになるでしょう。


昭和二十年の三月に旧制の中学五年を卒業した、と文中にあることから、この本の題名の象徴的な意味も読みとれるように思います。


この年に日本は敗戦したのですから、それまでの戦死や空爆による死者を含めて、多かれ少なかれ戦争の被害をこうむって死んでいった者たちが、そのあたりに集中しています。


それは敗戦前後に亡くなった両親にしても、戦後の荒廃のなかに何年か働いて死んだ兄たちにしても、戦争によって癌細胞が増殖したか、と思わせるものがあるのです。



蠣崎波響の生きた江戸時代後期は、ロシアが南下を続けてクナシリやエトロフでアイヌと接触するに至ります。


百年以上も鎖国を続けていた日本の蝦夷(北海道)の松前藩では、そのロシアとの交渉に大いに悩まされます。


波響はその藩主の一族であり、しかも家老でした。


松前藩は、アイヌ反乱の対策に失敗したという理由と、さらにロシアに内通しているとの密告によって、岩代(福島県)梁川に移されます。


実収五万石に相当する藩が九千石に落とされるのです。


波響は家老として、この梁川移封と松前復帰の苦難に直面します。


幼い頃から親んだ画業を生かし、画を売り捌いて藩財政の足しにしたといいます。


波響は、当時の京都や江戸の文化人との交流で大変人気があったようです。


その交流のあった人々の漢詩や手紙や俳句などを通して、波響の生存の実像に迫るというのが、この大著の眼目なのです。


******


彼の穏雅な性格は、挫折のなかにも日常の小さな喜びを発見する才能となり、それが最も不遇だった梁川時代の「八景図」のなかでも、領民の農家の男女の生活ぶりへの暖かい目となって私たちに伝えられ、この人物はいかなる時にも、運命と和解することを知っていた、生に対して肯定的態度を維持しつづけた賢人であったと教えてくれる。


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中村氏が「平凡な結論」と自ら呼ぶここにきて、読者の私たちも安堵の溜め息をつきます。



今回紹介するのは、「蠣崎波響の生涯」です。


中村真一郎著。


この大冊を読了して、私は大いなる感動に包まれました。


私などの読みなれない江戸時代後期の漢詩文も多く含まれているのに、中村真一郎氏の丁寧な解説があって、何となく読み了えてしまった、という悦びもそこにはあります。


そして蠣崎波響という私には未知の人物が、今や百年の知己のように思えてくるから嬉しくなるのです。


この本の序章を是非紹介したいと思います。


中村氏がなぜ波響にとりつかれたか、そこに明確に書かれているからです。


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一九八四年、十月二十六日の北海道新聞は、極めてセンセイショナルな、フランスからの特派員の報道を載せて、人々を驚かせた。


それは「江戸時代"松前応挙"といたわれた松前藩家老、蠣崎波響(かきざき・はきょう)の『夷酋列像』(いしゅうれつぞう)の十一点もがスイス国境に近いフランス・ブザンソン市立博物館に収蔵されていた。」


という記事で、従来、この波響の若年の代表作、アイヌの長老ら十二人を描いたシリーズは、早く原物が行方不明となっていて、わずかに残された下絵帳や、彩色の模写本によって、その華麗な原本が想像されるに過ぎなかった。


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前回から引き続き、わたしの友人大木一雄さんから紹介された小説の紹介です。


日記の書き手、小林律子は、このような「みじめ」な状況にいつもいるわけではありません。


たとえ時代や生活が苦しくとも、なにしろ17歳。


それに律子には天性の明朗な性格が付与されているようで「青春を、せいいっぱいたのしもう」としています。


やがて学校の蛭田先生が好きになり、「恋をしはじめて二日」「けれど、恋をしている気持って、なんとすがすがしく、健康なのだろう」などと日記に書くようになります。


高校3年になると、その恋と学校の勉強も重なって、だんだん律子は追いこまれた気持になります。


学校の人形劇「イワンの馬鹿」の脚色を引き受けて、それを書くために上野駅の待合室に坐っているところなど、律子の緊張と弛緩が出ていて秀抜です。


やがて死にたいという願いも抽象的ながら顔を出します。


この年ごろは抽象だけで死ねる時なのです。


私はこの本を読みながら、


―人情からぁめえば、涙ぐうせい などとうたっているお父さん。―


というあたりで何回か声を出して笑わされましたが、そういう瓢逸なところが律子を生かしたと思いました。



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